体験記

人生のゴールを目指す
S.Noda
 
集談会が終わった後の懇親会は、集談会で話しができなかった方と話ができるチャンスであり、森田についてさらに深く語り合える場でもあるので、私は時間とお金が許す限り懇親会にはできるだけ参加するようにしています。
そんな私も、かつて対人恐怖で苦しんでいた時は、懇親会のような場では話の輪の中に入れず、そんな自分を、「これではだめだ」と責め苛んでばかりいました。それが今では、人が語る話に自分の体験を重ねて共感し、会話につい口をはさまずにはいられなくなるほどで、苦しかった懇親会の場が楽しい場に一変しました。
別に、話しのネタを準備するようになったわけではなく、また、「これではいけない」と無理に会話の中に入ろうとしているわけでもありません。「ただ話したいから話しているだけ」というのが率直なところです。

では、なぜ自分がこのように変わったのか?
それは、「自由に話ができて人から評価される」ことよりももっと大事な事を自分の生き方の中心に置いたからだと考えています。昔は、他の人と比較して、雑談の時に言葉の出てこない自分は劣っているとしか思えませんでした。しかし、「人から評価される」ために心のエネルギーを費やすのをやめ、「人のお役に立ちたい」という本来の願いに従って生きることを日々意識して心がけているうちに、いつの間にか自然に会話の輪の中に入れるようになったのです。生きる姿勢が変わり、心の置き所が変わったことの「おまけ」としてついてきたような感じです。

私の中で起こったこのような変化は、次のように喩えるとわかりやすいと思います。
「かけっこ」の時に、普通の人は100メートル先のゴールだけを見据えて必死に走ります。一方、大勢の観客に圧倒されて、観客の声援ばかり気にしているのが対人恐怖症です。
 「人の役に立つ」という本来の目的を忘れて、「人から評価を得る」ことが生きる目的となっている対人恐怖の人は、あたかも、「良いタイムを出す」という走る本当の目的を忘れて、観客から多くの声援をもらうために、観客に手を振って走っているランナーに喩えることができます。そのランナーが、走る本当の目的を思い出して、ゴールを目指して無我夢中で走るようになった時、もはや観客の声援は気にならなくなります。人間は、「無我夢中で走る」ことと「観客の声援を気にする」ことの2つを同時に行うことはできないからです。
 でも、ゴールを目指して懸命に走れば、それは結果的に多くの観客から声援をもらうことにつながります。同様に、対人恐怖の人が、「より良き人生のゴールを目指す」という本来の目的を思い出して懸命に生きるようになった時に、もはや「人からどう評価されるか」はあまり気にならなくなり、神経症のとらわれからいつの間にか解放されることになります。しかも、「人の役に立つ」という目的のために全力疾走することになるので、結局それは「人から評価を得る」道につながるのです。


 対人恐怖以外の神経症にも同じことが言えると思います。
 「かけっこ」の時に、「走っていて自分の身体がおかしくなるのではないか」と心配しているのが不安神経症であり、自分の靴のヒモがほどけていないかどうか何回も確認をしているのが強迫神経症です。
 森田療法では、「不安」はそのままに、本来の欲望(「生の欲望」)に目を向け、行動することを教えています。神経症で悩んでいる人たちに、人生のゴールは何かを思い出させ、ゴールに向かって懸命に走る「人生の勝利者」へと導くのが森田療法なのだと私は思っています。